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【眼福】 勉強会の余禄

明治大帝

2011年07月5日(火) [お知らせ] 秋葉総本殿 可睡斎様のホームページより 

明治天皇 銅像 一般公開 本日から 7月5日

昨日4日10時から可睡斎にて明治天の銅像発見についての記者会見が執り行われました。
沢山の報道陣が可睡斎に訪れ今回の発見について元静岡県教育長遠藤さん、佐瀬斎主によって説明がなされました。会見は、一時間に及んだ。また、可睡斎に明治天皇さまの銅像が安置されていたのには理由があった。
その理由としては、明治初期に日置斎主(のちの永平寺住職)が宮内大臣の田中光顕と交流があったこと。そして、田中氏が明治天皇を深く崇拝していたことで供養のために可睡斎へ奉納したとみられている。
なお、今回の宝物館での一般公開に合わせ 徳川家康公ゆかりの品々、可睡斎護国塔関係と見どころをたくさん展示しておりますので是非ご来山くださいませ。

宝物館は朝8時から夕方5時まで 拝観料は個人500円・団体(20名以上)450円となっております。

側近制作「明治天皇の銅像」見つかる 袋井・可睡斎(6/ 7 08:14) 静岡新聞

 袋井市久能の可睡斎(佐瀬道淳斎主)に所蔵している厨子(ずし)から、明治期の宮内大臣田中光顕伯爵が制作を手掛けた明治天皇の銅像が見つかった。関係者によると、当時の日置黙仙斎主が田中伯爵に懇請し、伯爵の別荘「青山荘」(静岡市清水区蒲原)から厨子ごと譲り受けたものという。同伯爵が大正天皇に献上した等身大の銅像の原像とみている。写真を嫌った明治天皇には直接的な肖像史料が少なく、関係者は「非常に価値のある発見」と驚いている。
 厨子は菊のご紋があしらわれ、いつしか中身が伝えられなくなったが、寺は長年、開けない状態でまつってきたという。
 発見”のきっかけになったのは、寺にある護国塔の「建立100周年記念展実行委」(遠藤亮平委員長)の活動。青山荘の記録に「厨子と銅像が可睡斎に移された」との記述があることを知ったメンバーの調査で、日置斎主の弟子の付き人3人が今も健在であることが分かり、証言から事実関係を裏付けた。 銅像は高さ55センチ。文献などによると、明治天皇の崩御(1912年)直後、その威徳を後世に残そうと考えた田中伯爵がほかの側近や女官らを集め、顔の特徴を思い出しながら「改作に改作を重ね」完成させた。出来は昭憲皇后陛下から「真に迫っている」とのお墨付きを得たほど−との記述もある。作者は鋳造師の岡崎雪聲とその娘婿で彫刻家の渡辺長男とされる

※ 可睡斎護国塔100年展 記念講演のレポートはこちら。
企画力・行動力のある実行委員会さんで、お蔭様で6月度の勉強会の参加者は奥の間で特別に見せていただきました。参加者は皆、姿勢を正して”お参り”です。下記引用記事の通り、ありがたい解説に耳を傾け、「どうぞ撮影なすってください。」とお声掛けがあるまで誰もカメラやケータイを向けることが出来ませんでした。

以下、記事の続き。

護国塔は日露戦争(1904〜05年)の戦没者を慰霊するため日置斎主が建立した。佐瀬斎主は、日置斎主が銅像の譲り渡しを懇請したことについて「8万の御霊(みたま)と天皇の銅像を一緒にまつることで、一層の供養になると思ったのだろう」と推察する。
 明治天皇も護国塔建立に賛同し、資金援助した記録が残っている。「伯爵は、亡き天皇も(可睡斎に移ることを)望まれていると信じ、大切な銅像を日置斎主に託されたのでは」とも話す。
 遠藤委員長は「1世紀近い時を経て銅像が再び世に出てきた。本当にすごいこと」と喜んでいる。
 寺は銅像を本殿内に展示することで調整しているという。

 田中光顕(たなか・みつあき) 1843〜1939年。土佐に生まれた。初代内閣書記官長(現在の官房長官)、警視総監、学習院院長などを歴任。1898年から11年間、宮内大臣を務めた。青山荘には95歳で没するまで20年以上住み続けた。1867年の坂本竜馬暗殺事件時には現場に駆けつけ、中岡慎太郎から経緯を聞いたともされる。

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