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阪神淡路大震災のとき、あなたは?

 関東大震災に因むエントリが続きましたが、本日3/20はオウム地下鉄サリン事件から丸14年が経ちました。平成7(1995年)から早いものですが、霞ヶ関での慰霊祭は今日も真摯に執り行われ逃亡犯はいまだ捕まらず、決して風化させてはいけない事件です。

95年 就職氷河期 阪神淡路大震災 地下鉄サリン事件

 今回のテーマですが、個人的な書き出しから。
 振り返って見れば95年当時はかなり寒々とした時代だったようです。この年に大学卒業、就職しましたが、バブル崩壊後の就職氷河期と呼ばれた時代です。私は幸い家業があり修行の為、主要取引メーカーに丁稚奉公が決まっていましたが、これも父(会長)が何年も前からメーカーさんに頼んでくれていたお蔭であり、同じ立場の子弟が何人か断られて居ます。正社員の採用数もこの年以降年々縮小していた時期です。この頃から「人員削減」に意訳されたリストラの時代に突入し、程なく「終身雇用の最後の砦」と言われた松下グループもリストラを避けられず、企業と社員の信頼関係が変質してきた感じがします。当時は派遣のような選択肢も無く、TVなんかで「フリーターという新しい生き方」とか囃し立てていましたが、多くの同級生は何社に断られても何度もリトライしていましたし、女子学生にはそれこそ悲惨な時代でした。今のように「内定取り消しには違約金!」とか、派遣村騒動のような(訳のわからない、変な)救済はありませんでした。「今の若いもんは、、」という年でも無いと思いますが、やはり隔世の感が有ります。しかしやはり就職氷河期→フリーター→派遣村という時代の負の流れはこの頃に端を発したと押さえなければと思います。

 こういった時代背景であると理解してください。年が明けると卒論執筆追い込みの為、徹夜続きの完全夜型生活でしたが、朝方シャワー→仮眠→通学のパターンの中、ボーとした頭でTVの中の「火の海」を暫く理解できませんでした。が!関西の大学を出て神戸の外れに姉が住んでる事を思い出し、実家と連絡を取りました。無事は確認できましたが、酷く怯えて、後日から暫く実家に戻っていました。
 そして卒業間近で地下鉄サリン事件です。当日は鉄道や道路が遮断され、ヘリが乱舞し、八王子に住んでいた私は新宿の予定をキャンセルせざるを得ませんでした。このときもTV報道を眺めながらなにか現実味の無い感覚。卒業式との前後関係は忘れてしまいましたが、ゼミの追い出しコンパで、ちょっと旨く行かなくてイライラしている友人が「もっとやれやれ」と発言し、「そりゃねえだろ!」と喧嘩になったことを良く覚えています。
 そしてメーカーに入社し研修期間、オウムについての解明が進みつつありましたが、自己紹介の際にある同期が「オレのパソコンはマハポーシャ!」と言ってしまい、周囲がドン引きしたのはイイ思い出です。

 阪神淡路大震災について、左記より再確認してください。
 そのほか見聞きした事柄について
・震災の第一通報者は視覚障害者同士のパソコン通信から
野島断層記念館に行きました。他の人旅行記ですが、リンクさせていただきました。
・今現在にも予算や権利者の関係で復興しきらない爪痕が残っています。
・神戸の取引先の営業本部長(当時)と2年前に阪神高速を走った際に、「本当に地獄だったんだ」と当時の様子を、此処を火の海が、、、此処に避難者が集中して、、、あそこの銭湯が好意で入浴を、、、あの工場の瓦礫が、、、と、ご自分とご家族の体験を含めて、かなりな範囲を解説して頂きました。

 



 
 さて、既にインターネット上では広く膾炙しているエピソードが2点。ご存知の方も多いと思いますが、全文引用します。

1)敬礼!! 阪神大震災のあの日を忘れない  blog 漱石サロン ランデエヴウ様から
知り合いに心のまっすぐな美少女がいて、そのお兄さん的存在がサルさんというニックネームの青年です。私は偶々彼の日記を見ることになりました。
彼によればこのエピソードは伝聞だといいます。でも、私は作り話ではない真実味を感じました。ここに 阪神大震災のあの日を忘れない人々のことを、あらためて再録しておきたいと思います。

サルの日記

2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」

団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」

少女「で、何しにきたんや?」

団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」

少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」

団体「・・・・?」

少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。あんたらにわかるか?消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。

あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。

団体は撤退。

彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。

2)震災企画「あの日があるから」 自衛隊員になった少年「命の恩人に憧れて」 ぐだぐだプリンシプル様から
「良平! 」「大丈夫か! 」。自分を呼ぶ声が遠くで聞こえ、目を覚ました。なぜ呼ばれたのか、どこにいるのか、何も分からなかった。辺りはただ真っ暗。身動きができなかった。「ここにおるよ! 」。力いっぱい叫んだが、相手に届いたのかどうか。すぐに意識を失った。

平成7年1月17日午前5時46分。当時、小学3年生だった陸上自衛隊第3特殊武器防護隊所属の安藤良平陸士長(22)=兵庫県伊丹市=は、神戸市兵庫区中道通で被災した。自宅のあった3階建てのマンションは全壊。中道地区は倒壊家屋が多く、犠牲者は70人以上に及んだ。

3階の一室に家族4人で住んでいた安藤さんは、崩れ落ちたがれきの下敷きになった。けがはなかったが、倒れかかったタンスと壁の隙(すき)間に入り込み、救助されたのは発生から半日以上経った午後6時前。避難所となった近くの小学校で、父親の政弘さん(52)に抱きかかえられていたとき、ようやく意識が戻った。

□  □

地域住民らが身を寄せ合う真冬の小学校。ビニールシートと木材で校庭に建てられた仮の住まいで約3カ月間、避難生活を送った。その間、相手をしてくれたのは、避難所を毎日訪れる若い自衛隊員だった。

隊員はときに遊び相手になり、話し相手になってくれた。来るのは昼過ぎの給水時間。生活再建の悩みなどで重苦しい雰囲気の避難所で、隊員は優しく、頼もしい「お兄ちゃん役」だった。

そんな自衛隊員が「命の恩人」だと知ったのは、約2年後の小学5年生のころ。半日以上も意識が戻らなかった息子を心配してか、震災のことをほとんど語らなかった父が教えてくれた。

発生直後、政弘さんら3人は外に飛び出したが、安藤さんだけが室内に取り残された。室内は壁が崩れ、天井がゆがみ、タンスが倒れていた。政弘さんは「助かってほしい」と祈るしかなかった。そのとき、駆け付けた隊員が、かすかに聞こえる声を頼りに安藤さんを助け出したという。

苦しい時に手を差し伸べてくれる頼もしい人-。避難所の優しいお兄ちゃんと命の恩人がひとつに重なったとき、安藤さんは自衛隊員になると誓った。

地元の高校を卒業後に入隊。訓練は想像以上に厳しかったが、「人を助ける人間になるには必要」と言い聞かせた。配属先は、放射能汚染や洪水災害後の防疫、消毒作業などを行う化学科を希望。危険な仕事だが、困った人を真っ先に助ける職種に思えたからだ。

今春で自衛隊員になって丸4年になる。各地で地震、水害が頻発するが、災害現場への出動経験はまだない。それでも日々の訓練を通し、1人の被災者を救助することでさえ難しいことを知った。

責任の重さも痛感している。知人に自衛隊員になったと言うと、必ず「頑張れ」と励まされる。13年前の自分と同じように、自衛隊員に助けられた被災者は多い。「がれきの下から助け出された自分だからこそ、いまの仕事に生かせることがあるはず」と話す。

震災から間もなく13年。うれしい知らせも届いた。救出してくれた隊員が見つかり、16日午後、自宅跡地で再会するという。そのとき、こう伝えたいと思っている。

「あなたと同じ自衛官になりました


以上、引用終わり

 平成7年の此処に挙げた3つの事柄、すべて現在まで影を落としていることが分かります。自分にとっての転機と重なり、思いの中でかなりのウェートで影響していると思います。関東大震災についての美談は書籍で勉強していますが、これらはすべてインターネット上でも細やかに顕彰されていますので、興味があれば検索して見てください。

 衆院選、任期満了までなのか、割と近い時期になるのか分かりませんがいずれにしろ半年の間に実施され、また知事選等、選挙の年になりますね。政党の選択はイロイロあり、特定政党についてどうこう言うつもりは毛頭ありません。但し、防災屋の端くれとして、これだけは押さえておいて欲しいと切に願います。

 平成7年、震災当時は村山内閣、「なにせ初めてのことなので」と自衛隊への命令を数日間遅らせました。当日のうちにも死者1000人の状況ですが、「対応は現地視察が戻ってから」とTV報道も見ていない様子。アメリカ軍が避難民を艦船に保護する申し出を始め、各国の支援にも許可をなかなか出しませんでした。このときの対応が元で2000名以上の救える命が助からなかった、万全の出動態勢を整えながら、命令が出ない、助けに行けない自衛隊員の涙ながらの記者会見を覚えています。廃墟の地下から過激派か北朝鮮かと言われるロケットランチャーや迫撃砲なども見つかり、当時の社会党との関連から時間稼ぎをしたのでは、、との噂もありました。
 やはり当時の左派の兵庫県知事も自衛隊アレルギーから出動要請を遅らせます。
 併せて現在のネジレ国会で進まなかった予算審議の中には「豪雨復興予算」等も含まれていました。

 皆さん、くれぐれもお願いします。大災害や非常事態を想定した場合に国家が責任を持って保護してくれることを担保する政策理念を良く確認して投票してください。イロイロな価値基準があると思いますが、死なないことが一番だと、防災屋は考えます。

テーマ : これでいいのか日本
ジャンル : 政治・経済

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