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泣きばあさん【心を掴む】仏教哲学入門のさわり部分

 某総会の基調講演にて「心を掴む」をテーマに京都は清水寺貫主様の講話を拝聴してきました。
昨年を象徴する文字「絆」と揮毫したあの人です。

≪誰しも、仕事や生活で生じる不安や悩みに心が囚われてしまう瞬間があるもの。今回の基調講演では、情報が溢れ、迷いが増えている現代にあってこそ耳を傾けたい“ 仏の教え” をわかりやすく説いていただきます。≫

 清水の舞台から飛び降りる 古くから清水が元になる言葉や、能舞台のもとになったとか、徒然草などの時代から観光としてのお参りが続くことなど楽しい導入部。随分と俗人の視点まで降りて分かりやすく楽しい時間。あっという間に過ぎていきました。

 仏の教えとは何ぞやと、一聴するに難しいテーマながら、「我々一人ひとりの内部に仏がある」とは、「命」と置き換えられる。心とは執着すること、心とは蔵(倉庫)のようなもので、要るもの要らないものが雑然と仕舞われていくこと。人は物事を心という蔵を通してみるから不要な執着は真実を見誤るよ、と。だから心から悪いことを追い出し、または寄せ付けず、善い事を考えて実行していかなければ。

 明日はあるのかといえば、今日があるから。今日は昨日のやったことが影響している。よき明日はよき今日の結果だからという時間の連続の話しもあった。被災地の小学生を社会見学に迎えられたそうで「幽霊はいるの?」と、「お、やっぱりきたか」とい質問を受けたそうで、「幽霊は居ますよ、居ると信じている人にはね。」鰯の頭も信心からとか、その逆、認識していないものは見えないとか。この応え方が本質なんでしょうね。

 どうです、意外と仏教も科学的でしょう?今に繋がる仏教”哲学”は。という言葉も出てきました。
日本には果たして一神教的な宗教心はあるのかとクリスマスなど時期で取り上げられる話題ですが、神社は「約束」「誓い」の場で身を清めるところ。お寺さんは哲学を勉強するところ。願掛けやお百度などの風習とは別にして、寺社仏閣ぞのものは”信仰”としての場ではないような気がしています。仏教の目指す終点は一つ、宗派ごとに登り口や経路が違うが辿り着きたい境地は同じとありましたが、ビジネスの名言や武将の残したもの、西洋哲学も含めて、「心に響く」「普遍的な」という言葉は同じようなことを言うものだと思っています。

 この日、実は父親(会長)の誕生日と重なり、ファミリーパーティーの為、懇親会は失礼しました。甥っ子どもが高校生と受験生になり、難しい話も出来るようになったかと時間の経過をシミジミと感じたわけですが、爺様が丁度ネフューたちを諭すのに「泣き婆さん」の事例を出しました。



 泣き婆さんとは、昔々、毎日毎日泣いてばかりいるお婆さんが居まして、近隣には友達や話し相手も出来ないほど暗かったそうです。偉い坊さんが通りかかり、「どうしてそんなに泣いているの?」と。ばあ様答えるに、「ウチにはセガレが二人おりますが、一人は草履屋、もう一人は傘屋でございます。」雨が降れば草履は売れないし、日照りになれば傘屋の息子はどうしていることかとサメザメ泣く。「受け止め方を変えたらどうだい」と、坊様。日が出れば草履屋は繁盛するし、雨が降ったら傘屋が儲かる。”お天気”という抗えない環境に一喜一憂するでなく、身をおいた背景の中で日々感謝して生きようという説話なのだが、それから婆様が明るくなってハッピーエンドです。

 「泣き婆さん」というタイトルだったんだあと別のことを考えていたので、なんでこの話の流れになったんだかわかりません。久し振りに親父の定番の説教を聞いたので「ありがてえなあ」と思いました。



色々と仏教説話を聴いた一日でしたが、昨年の忘年会では下記のフランス哲学者の言葉を引用しました。
”本質”には洋の東西は無いと浜松の片田舎からの感想です。


『悲観主義は気分のものであり、
 楽観主義は意志のものである。
 およそ成り行きにまかせる人間は
 気分が滅入りがちなものだ』        アラン 『幸福論』より

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